ハロー歯科医院

東京板橋区の一般歯科,予防歯科,インプラント,審美歯科 

〒173-0004 東京都板橋区板橋 3丁目12-2
TEL 0120-44-3986

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院長‘ぷろふぃ~る’・・・等々(#^.^#)

院長 ぷろふぃーる

札幌生まれで札幌育ち。ピアノを教えていた母からピアノを習うこと3歳から。しかし好きになれず嫌々続けさせられる。小学校低学年時代の夢は天文学者。高学年になり、雑誌「子供の科学」に強い影響を受け、「電気」に興味が移り、小学5年にアマチュア無線の免許を取得したり、ラジオ作りに励んだり・・・中学生時代の夢、特になかったがピアノのレッスンは続き(させられ・・、嫌々)、仕方なく受けさせられた毎日新聞音楽コンクール東日本大会で3位。がやはりクラシック音楽は好きになれず、やっと(晴れて!)ピアノをやめることとなった。高校時代の夢、哲学者?いろいろ悩み混沌としていた時期。そして、嫌いなクラシック音楽に目覚める。
学校や受験のための勉強なんかクソ食らえ、と反抗的姿勢のため、結局不本意な大学の歯学部に入学したものの、いろいろ失望も大きく、音楽に顔を向け、色々オーディションやらを受け、運よく合格し、コンサートや交響楽団との共演を行う。歯科医には毛頭興味がもてず、この頃に小型船舶の免許や自動車ラリーライセンスを取得したり、大学から距離をおいた日々。
歯学部卒業後(国家試験合格後)歯医者という職業は自分の頭の中に全く無く、音楽への情熱だけは増し、ソロリサイタルを独学(中学でやめた後は先生にもつかず)、自力で開いたりしていた。後にハンガリー国立リスト音楽院の入れて頂き、ハンガリーにてソロリサイタルを中心に演奏会を開きながら、さまざまな音楽、音楽家にも触れ、音楽三昧の生活、人生でもっとも充実した日々を過ごす。がハンガリー滞在4年余後、左指の調子が悪くなり、やむをえず帰国、仕方なく歯医者となる。
その後歯科医として、「誰にも負けるものか!(人を蹴落とすのではなく)」とがんばっている。今の目標は、「医院を充実した医療機関に成長させること」最近の余暇は・・・山登り(高校時代:ワンダーフォーゲル部だったため?)最近の趣味は・・・‘超手品!?’‘自転車'・・・子供のころ、よく自転車に乗って40kmもあるところの湖にサイクリングに出かけたものでした。何十年も経てその気持ちが復活?今、練馬江古田から片道5kmの通勤で汗かいている。‘趣味の資格'~アマチュア無線技士免許。最近ステップアップし、一級小型船舶操縦士免許取得。

 

2014年 春 南三陸町

2014年 春 南三陸町

南三陸、被災地の「語り部バス」に乗った。
一時間余りだったが、町をめぐり、お話を伺うことができた。
語る方は70歳に近いご年齢。当時の写真を見せながら、バスから見える光景を話してくれる。
この方の自宅も被災し、今もなお仮設住宅に住まわれている。

町の殆どの人々がいろいろな形で被災した。個々の悲しみ、苦しみは創造を絶するが、各々超えていくしかない。
その中にあって、町の人達は力を合わせて復興へ進んでいる。
なかなか進まないけれど・・・、と。

町の幼稚園。防災訓練は日ごろからやっており、この日の前日にも実施していたそう。
向かいの丘に避難訓練。しかしあの日の津波はそれを越えた。
「もっと上の小山へ登って!」園の先生方は引き連れた。子供達は一生懸命がけのような坂をよじ登った。
助かった!
寒い一夜だった。子供達も先生もみんなで歌を歌い励ましあった。
みんな助かった!

防災対策庁舎の最後のアナウンスは、かの女性だけではなかった。
女性の上司にあたる人が最後はマイクを握っていた。「早く上の階に逃げろ!」
町の人もその方の声をはっきり聞いている。その方も行方はわかっていない。
そのご家族の方は、町の人々がわかってくれるてるならあえてマスコミを正そうとはしない。
「うちのお父さんは職責を果たしたんだね」

昭和35年、チリ地震の大津波によってこの町は被災したことがある。
その関係でモアイ像が贈られている。
今回の被災で、モアイ像は破壊され頭だけ見つけることが出来た。
それを聞いたイースター島の人々が新たにモアイ像を運んでくれた。
眼の入ったモアイ像。世界で二体しかないそうだ。本物のモアイ像が今南三陸に在る。
モアイ、とは「未来に生きる」という意味。「眼を入れると霊力が宿る。南三陸の悲しみを取り払い復興を見守ることを願う」と、イースター島の彫刻家、ベネディクト・トゥキ氏。

語り部の方が最後におっしゃってくれた。
「私達に必要なのは大勢の方が訪ねてくれることです。それが何より励みなんです。被災地にいくなんて失礼じゃないか、不謹慎じゃないか、被災者になんて声をかけたらいいのか、といろいろ迷われる中、勇気をもって来てくださって本当にありがとう」

私もずっと迷っていた。この言葉には大変恐縮する。涙が出た。
来て好かった。

これからも影ながら、微力ながら・・・応援したい

2014年 5月 稲谷寿紀

 

2014年6月18日 88歳の巨匠 アルド・チッコリーニ氏 の演奏を聴いて~

もう何年ぶりだろうか、演奏会を聴きに行った。88歳という高齢のピアニスト、チッコリーニ氏。
以前ヨーロッパに住んでいた時、80歳過ぎたゲオルグショルティ(指揮者)の、指揮棒をぶっ飛ばすほどの情熱のほとばしりに圧倒され、同じく80歳のニキタマガロフ氏(ピアニスト)のあまりにみずみずしい音楽に感動し、同じくリヒテル氏(ピアニスト)の自身の心と対話するかのように内省的で美しい音楽に心が浄化された思いがあった。
そして今日の演奏会。ステージに上がる氏は、杖をつき椅子に座るまでよろよろとゆっくりと歩かれる。しかしピアノを引き始めるなり、暖かく、優しい響きがホールを満たし続けた。拍手もなりやまず、聴衆もみんな幸せなひと時を感謝したに違いない。素晴らしかった、聴きに行って本当によかった。90歳の演奏会を楽しみに楽しみにしている。

 

2024年3月23日  ~巨匠M・ポリーニ氏の死去に寄せて~

 現代において至高ともいえるピアニスト、マウリツィオ・ポリーニ氏が82歳の人生を終えられた。
氏のピアニストとしての経歴は18歳の時のショパンコンクール優勝、というのが一般的ですが、その以前、15歳と16歳の時ジュネーブ国際ピアノコンクールで2位、そして17歳の時にイタリアのポッツォーリ国際コンクールで優勝している。当時、ショパンエチュードを全曲弾くピアニストは殆どいない中(私の知る限りではウラディミール・アシュケナージ氏だけか?と思う)ポリーニ氏15歳ころの演奏をユーチューブで聴く機会があったが、すでに完璧な奏法だった。氏が10歳ちょっとだと思うが、クラマービューローという昔からピアノを学ぶ上で多くの人が譜面に目を通したであろう練習曲をこれまた悠然と完璧に弾きこなしていた。
 ポリーニ氏は晩年のインタビューで、私には10代の時にショパンエチュードを弾くには力量が不足していたのだ、と述べている。そして20代後半、ショパンエチュードのCDを世に放ち、大センセーションを巻き起こした。
 
 私事で恐縮なのだが私は中学までピアノを習わされ!嫌々レッスンに通わされた。小学校のころから、学生コンクールにも出させられ!嫌々出場してきたが運よく、最年少で選出されたり、入賞もした。中学の時は東京ヤマハホールでの毎日学生ピアノコンクールで3位になった・・・のを機に、もう僕は辞める!と小学生から指示していた先生やコンクールの際に連れていかれた一番偉い芸大の教授にそっぽを向いた。それなりに周囲の期待はあったと思うが、嫌いなものは続けられない。私は当時ビートルズやらをこよなく愛していた。クラシック音楽は好きではなく、コンサートに連れていかれても演奏中にいびきをかいて熟睡するような子供だった。クラシックはなにかネトネトしていて、適切な表現とは言えないが、当時妙なアヤをつけるのが常識とされる、ピアノ音楽には私にはサッパリ、ピンと来ず、自分にはこんな弾き方はできないと思っていた。
 が、ある時、当時FMラジオから、ピアノ演奏が流れ、ググっと惹きつけられたのだ。シューベルト。シューベルトのソナタといえば当時、退屈、凡長な駄作、と評されていたものだが、全く違う。流麗な美しいメロディーに「力」を感じた。、生きるエネルギー、を感じさせてくれる演奏。生まれて初めて音楽で体が熱くなった。私は一気に魅せられた。それがポリーニ氏の演奏だった。

 話が長くなってしまうので途中端折るが、そこから私の人生はまた急旋回する。高校時代は師を仰がず、独りで邦楽から西洋現代音楽まであらゆる音楽を聴き、新たな楽譜を読み、弾けるようにも練習した。浅いながらも音楽の歴史や楽理も独学した。作曲もした。音楽芸術こそ我が人生と思った。
 そして数年が経ちソロリサイタルを行った。
 色々な人の協力をいただいたが会場の予約、チケットやポスターの印刷も自分一人でかけあった。プログラムも自分で書いた。コンサートの1っか月余り前、運よくハンガリー国立リスト音楽院の教授に演奏を聴いていただく機を得た。光栄なことにプログラムの巻頭言を快く引き受けてくださった。彼は優れた「ピアニストであり優れた音楽家だ」、と。
 生まれて初めてのリサイタルは、成功・・・したと思う。その日は一睡もできず、次のリサイタル、プログラムについて夜通し頭を巡らした。実はこの初めてのリサイタルは、ピアノ教師でもあった母親の追悼の意味が私の中にあった。私の嫌いなピアノのレッスンに毎週、自分の忙しい仕事をぬって、付き添ってくれた母へ。だからプログラムの最後はベートーベン最後の崇高なピアノソナタ、第32番。
このソナタは、ハ短調の苦悩と葛藤の1楽章からハ長調の2楽章へと続く。終盤、「曇り空から美しく晴れ上がる朝の空」を想起させるところが、苦悩から歓びへ、というベートーベンの言葉そのものを表す作品。私の中では至高の音楽。どんなピアニストが素晴らしい演奏をしたとしても私は満足できない、自分の心を満たせるのは自分しかない・・・曲。生きることを強く望んでいながら早逝した母へ捧げたかった。死後は美しく歓びに満ちた世界で幸せであるように。

 2度目のソロリサイタルを終えた後、私はヨーロッパへ旅立つことを決意。

 ウィーン、ザルツブルグでポリーニ氏にお目にかかることができた。演奏会最中、舞台袖のポリーニ氏の鬼気迫る眼光に狂気さえも感じるほどだった。気迫の演奏、入魂の奏法は多くの人に強い感動を与え続けた。
 語りつくせぬほど言いたいこと、思い出はあるが、今日に至るまで、何百回もその演奏を聴いている事実、私の心を大きく変えた、偉大なピアニストが亡くなり、ぽっかりと心に穴が開いた。

 色々と思い出してしまい、涙・・・
 
私の人生にとって、ポリーニ氏の存在は大変大きいもの。心から感謝。
氏は晩年までべートーベンの後期ソナタ(特に最後の3曲)は大切なレパートリーだった。

安寧へと誘われるかのような最終ソナタを、天国でも弛まぬ芸術の追及とともに氏は弾き続けている気がする。

今後私の夢の中で、そんなポリーニ氏の演奏を聴けるかもしれない・・・